私の1989年 レガシィRSタイプRB
私のレガシィRSは「RSタイプR」だから、当然この「タイプRA」ラベルはいわゆる「ステッカーチューン」である。
もちろん「タイプRA」でないことは至極残念。STiの熟練の職人が磨き上げたヘッドやバランス取りしたドライブトレイン系部品が付かない訳だし、なにより「RSタイプRA」だけの打刻される、コーションプレートの「BC5*4AD」という型式だけは、私たち一般人にはどうすることもできない。 |
そもそも「RSタイプRA」というグレードは、レガシィがデビューした1989年の国内ラリー選手権で、意外に大きかった車両毎の「個体差」を補正して戦闘力を上げ、それまでマイナーだった「スバル」で競技に出場するエントラントを増やすことで、新生「スバル」のスポーツイメージを高めたい、というのが本来の登場の理由だったように思う。
だから、「RSタイプRA」の存在意義は、当時STiの全面バックアップを受けて国内ラリー選手権でレガシィRSを走らせていた「IPFチームオクヤマ」のような有力エントラントなどというより、クルマのセットアップに掛ける時間も資金的余裕もノウハウも持たないビギナーから中級クラスに向けてアピールすることだったように思う。
だって有力コンテンダーなら、自前でエンジンからボディ、セッティングまで、厳密にレギュレーションを読み込んだ上でやれなければお話にならない。トップチームにとってもなるほどベース車両は大切だが、それ以上にマシン開発のマネジメントがモノを言う世界だ。 |
「RSタイプR」の登場が1989年9月なのに対して、「RSタイプRA」の発売は発売は1989年10月。
わずか1ヶ月しかタイムラグがなかったということは、競技用ベース車両として、初期のレガシィRSに搭載された「EJ20G」の製造工程での品質のバラつきを、おそらく富士重工業自身も把握していて問題視していたということなのだろう。
ただ、やはり全くの新型車である。特に生産の立ち上げの段階では、生産現場も日々起こる問題の解決にまさに「火の車」だったに違いない。
しかも、よりシビアな品質管理が要求される「額面」220psの高性能ユニットである。現在でこそ、280ps超の超高性能車を年次改良で重箱の隅を突つくようにリファインしてくる富士重工業だが、正直なところ当時は送り出すだけで精一杯だったのではないか。
こんなことを言うと「だから富士重工業のクルマはダメなんだ」という人もいる。ここまで理解して言うならそれも仕方ない。ガタガタ ケチをつける以前に、スバルのクルマを選ばなければいいだけの話だ。 |
だが、所詮マスプロダクツ製品とは、メーカーがユーザーの本質的利益を考えてモノつくりをしているのかというと実際そうでもないだろう。
むしろ、先進国における品物の販売量は、膨大な広告宣伝費を投入しての消費者に対する徹底的なイメージの刷り込みと、販売店舗数・チャンネル数で大方決まってしまうものだ。
そして販売台数がそのクルマの「価値」の絶対的基準になりえるかといえば、それも違う。
ひとつの技術に固執して、それを徹底的に磨きこむ人々がいる。そしてその技術に限りない愛着を抱いていて、そのことについて語り始めたらとても2日や3日で終わりそうもない。ときに無謀だが、人好きのする人々だったら私はその商品を買ってしまうだろう。
だから私はスバルが好きなのだ。
電通には気の毒だが私は民放の放送は一切見ない。
「RSタイプRA」はそんな富士重工業の「火事場」の中で、「スバルで」他人より速く走りたい人のために、そんな人々の中でもさらに「ケモノヘンに王様」の文字が付くほどスバルのボクサーが好きな人々の情熱から生まれたクルマだ。
スバリストなら好きなクルマの筆頭に挙がらない訳がない。 |
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